「きれいごと」で構わない、「理想を構想し、訴えること」の復権を(2) 井上 純


蔓延する「シニシズム」という病 ~「理想」を見失った結果、世界は劣化した~(続)

 近年、他人(それも自分と反対の意見を表明している人)に対して平然と罵倒の言葉を浴びせたり、他国の人々やその文化を確信犯的に侮辱したり、倫理的に問題のあることを公然と主張したりすることが目立っている。それも一般人だけでなく、公的な立場の人間が公的な場で堂々とそのような発言を行っている。うっかり口を滑らした感じの人も中にはいるが、かなりの部分は自分のその時心に浮かんだままの感想を自己検証もせずに(したがって間違ったことを発言しているという意識もなく)そのまま表明し、一部の人はそのことを指摘されても言いつくろいもせず開き直っている(特定の名前をここに挙げることはしないが、読者の皆さんは何人かの名前を思い浮かべるだろう)。
 おそらくそのような発言を繰り返す人は、今自分がしゃべろうとしていることが一般常識や道理に照らし合わせて正しいかどうかよりも、自分が感じたままの「本音」を少しでも偽っていないかのほうに重きを置いているのではないか。ただし、「本音」と言っても自分の内面を何度も問い正したり、視野を広げ様々な角度からそのことを検討したりした上での思いではない。しかもそういう態度をとる者を支持する人々が少なくない。これは「理想」を「偽善」とし、倫理に対してシニカルな懐疑の態度をとることの帰結であり、ねじれた素直さと言っていい。今日本のみならず海外でも問題になっているレイシズムやヘイトスピーチは、こういった背景を温床にしている。
 それと関連してだが、このところの風潮として知に対する反感・蔑視・軽視が強くなっている。知的な議論や理性的な判断よりも意志の強さや勢いのよさ、心を揺り動かされるかどうかのほうが評価が高い。物事に対して複雑な背景を詳しく、根気よく調べつくすことよりも単純化して一言で表現できるほどわかりやすいものに還元する(ただし単純化の過程で多くの事柄が抜け落ちてしまい正確さに欠ける)ことがはやっており、知性を働かせて精緻な分析をしたうえでの主張をすると「屁理屈を言っている」「上から目線」と嫌われる(「スター・トレック」に登場する沈着冷静・頭脳明晰で「論理的」が口癖のヴァルカン人、Mr.スポックは今ならさしずめ嫌われキャラだろう)。国会の論戦でも、調査した事実をもとにいかに問題の本質を突く指摘をしたかよりも、いかに一般受けする発言をしたかのほうが議員の評価につながっている感じがする。作家の佐藤 優氏や政治学者の山口二郎氏が盛んに「反知性主義」の広がりに対する警告を行っている。その裏には権威というものに対する反感があり、これも多分にポストモダンによる、知と権威の結びつきに対するシニカルな批判の影響を受けている。
 確かに知は容易に権威に結び付きやすく、そのことがヒエラルキーの維持強化につながっていたことはポストモダンが指摘したとおりである(知というものは昔は特権階級の独占物だった)。また、議論が物事の本質から外れた、些細なことを巡っての言い争いに終始することもままあることである。しかし知が権威に転化するからといってそれを忌避し、論理や道理によらない判断をしたり、行動をしたりすればいずれ矛盾が重なって手痛いしっぺ返しを食らう。東日本大震災と地震学者・福島第一原発事故と「原子力ムラ」を持ち出すまでもなく権威に盲従することは禁物だが、権威というものが生まれるのにはそれなりの理由があるのであり、いたずらに否定すればいいものではない。これも日本に特有の風潮ではなさそうで、宗教上や政治思想上の原理主義の隆盛(キリスト教原理主義やイスラム原理主義、ティーパーティーにみられる保守・市場原理主義など)は、たぶんに知に対する否定と関連がありそうである。
 学校でのいじめの問題は以前からあり、多くの教育関係者が問題の改善に取り組んできた。しかし全体的には改善の兆しはなくむしろ最近では問題が深刻化しているように見える。そのいじめ問題の只中にある子供の意識であるが、関西学院大学准教授の貴戸理恵氏によると、多くの子供はいじめはなくしたり減らしたりすることはできないと考えているらしい。そこでその変えられない「現実」の中でいかに自分にとって有利な状況を導くか(つまり、いかにいじめられる側になることを避けるか)という観点が子供のふるまいを決める原則になりつつあるようだ。そのために、不利な状況に置かれたほかの子供のことに目をつぶる(つまり、いじめられている子とのかかわりを避ける、場合によってはいじめる側に回る)ことも仕方がないと思っているのだろう。子供にとっては一切のいじめのない状態は「理想」のはずだが、「理想」を構想し、求めることは封じられているのである。子供が置かれているこの状況も「シニシズム」が蔓延する大人の社会の反映である。安倍首相の教育改革は成功しないだろうと先に述べたが、子供の自分を取り巻く状況に対するとらえ方が悲観的で、大人の社会へのある種の懐疑があることも理由の一つである。
 「シニシズム」の広がりは多くの人々の他者に対する相互不信を招いている。社会に対して「どうせ他の奴らは裏であくどい事をやっていい思いをしているんだろう。世の中なんてそんなものだ」というとらえ方が広まってしまえば、他人に対する信頼は生まれない。さらに他者への共感を欠いた新自由主義の人間観が相まって、現在の社会は「万人の万人に対する闘争(ホッブス)」状態である。それが上層部では、敵対関係にあるとみなす相手に支配される恐怖感を原動力とする国家間・企業間での手段を問わない覇権争いの激化をあおり、大衆に対してはストレスと閉塞感の増大をもたらしている。
 競争によるストレスと閉塞感の増大に、景気低迷による閉塞感や生活を送ることの困難が加われば、そのはけ口はおのずと自分たちより弱い立場のものに向かう。それが一方では不可解な動機による無差別殺人などの凶悪犯罪を生み(彼らの動機の底には多分に世間に対するシニカルな見方があると思う)、他方では、罪を犯した者に対する処罰感情の増幅を招く(犯罪被害者や殺人事件の遺族などの関係者はともかく、多くの犯罪に厳罰をもって臨むことを主張する人たちは自分が加害者の立場になった時の想像力やそれに伴う共感を欠いている気がする)という悪循環になっている。また、自分たちと価値観を異にする少数者に対する不寛容となって表れる。児童虐待や高齢者への虐待、孤立死に象徴される「無縁社会」などの背景にも、他者に対するシニカルな不信や無関心が横たわっている。
 その上さらに「格差の拡大」が重なれば妬みの感情が蓄積する。そして自分たちの正当な報酬を奪っているとみなされるものがこじつけられて(でっち上げられることもある)、つるし上げの対象になる。妬みの感情はちょっとしたきっかけでたちどころに燃え広がるので、デマゴーグたちはそこを巧みに操って支持を広げ、自分の政治目的を達成しようとする。今日におけるポピュリズムの台頭の背景である。
 そのほかにも、ネット上の「炎上」(そうでなくてもネットの掲示板などにはシニカルで粗野な表現に満ちた書き込みが目立つ)、クレーマーやモンスターペアレントの増加、駅員に対する暴行事件など、シニシズムがもたらす病理がいろいろと認められる。

「きれいごと」の効用

 これまで行き過ぎたシニシズムが「理想」を消滅させ、世界を劣化させたことを見てきた。それではシニシズムの行き過ぎはなぜ世界を劣化させるのか。そのことでみえる「理想」の効用とは何か?
 最初にポストモダンの思想家たちがシニシズムという作法をとったのは、従来の価値観にほころびが生じていることに無自覚な人々に「自省」を促すためであった。しかし「シニカルな態度」が世の隅々に満ち溢れたとき、そこから「自省」という性格は消えていた。むしろ他者に対する攻撃の道具となってしまった。そして現在ほど自らを省みる姿勢に欠けている人々が多数を占めている時はない。
 シニシズムが自省の契機になりうるのは自らが正しいと感じている価値観を検証する動機の欠如に無自覚な時である。社会構造や制度の機能分析に貢献した社会学者のロバート・キング・マートンは社会構造や制度には望ましい機能である順機能と望ましくない機能である逆機能を抱えていると考えた。社会構造の安定に役立つと考えられている制度でも潜在的な逆機能を抱えており何かの拍子でそれが顕在化して問題を生む。これは社会構造上の問題にとどまらずありとあらゆる物事に当てはまる。
 したがってどんなに有益で妥当な価値体系にも欠陥はあり、検証されることなく煮詰まってしまうほどに偏ってしまえば人々を悲惨な状況に追い込む。例えば広く世の中のために貢献するという価値観も行き過ぎれば国家のためにすべてを犠牲にする、または共同体の発展のためにその障害となっている人物を殺害するという考え方が出てくる。まじめで一徹な人ほど自らをそのような状態に追い込みやすい。赤軍派などのかつての新左翼はこのような状況に自らを追いやってしまったのである。シニシズムの一撃は敢えて価値体系の枠組みを極端にゆがめることによって物事を相対化する視点を示し、そうした人々を「正気」に戻すことができる。
 ところが、シニシズムが世にあまねく満ちて、それ自体が煮詰まってしまうと人々のよって立つ価値体系のすべてが不安定化してしまい、「自省」という性質は消える。「自省」という心理を働かせるためには自らの姿を照射する「鏡」のようなものが必要だが、シニシズムの作用が過剰になって精神の無秩序状態(どんな価値体系も疑わしく、無意味だという結論になってしまうこと)に陥ってしまうと、「鏡」となりうる足がかりがすべて消えてしまう。シニシズムの「逆機能」である。
 「自省」することができなくなった結果、自己の利害に直接かかわる事柄以外に自発的に欲望を抑えたり倫理を尊重したりする動機が失われ、容易に利己的にふるまうようになる。こうして行き過ぎたシニシズムは倫理や規範を破壊して世界を劣化させる。その典型的な例が新自由主義を信奉する投資家たちで、彼らは「シニカルな態度」を「既得権批判」という形で専ら自己の立場の正当化と自分の利益の障害になる物事への攻撃に用い、知っている限りでは一度も「自省」の姿勢を見せたことがない。むしろ世界がシニシズムに満ちていることをいいことに、自分たちもそうしているだけだと居直っている(リーマンショック時に税金で救済されたのに相変わらず役員のイスにふんぞり返っているアメリカの大手投資会社の経営陣を見よ!)。
 人々が「自省」によって自らを律することができるようにするためには自らの姿を照らし出す「鏡」が必要である。「理想」こそ、最も適した「鏡」である。
 確固とした価値体系のもとに構想された「理想」は「自省」のための指針となる。シニシズムのように価値観そのものを問い直したり、転換したりする効果は小さいが、人に「自省」を促す点では「理想」のほうが効果は強い。特に他者に向かって高々と掲げられた「理想」は常に他者から宣言されたことと実際の行いを見られているため矛盾があれば指摘されることになる。こうして内面における「自省心」と外面における「第三者の目」が相まって人が倫理から逸脱することを防ぎ、社会の劣化を止める力となる。
 また「理想」を構想することにより、現実を相対化することもできる。今そこに展開している現実だけがすべてなのではなく、絶対的なものではないことを示すことができれば、世界を変革するための力になりうる。
 「理想」が人々に目標を指し示し、希望をもたらすことも見過ごせない。高度成長期の日本は誰もが「より豊かになる」という理想を抱き、それに向かって懸命に働いた。自分たちが「豊かになる」という目標に着実に向かっているという実感が人々の希望となっていたことは否定できない。希望のないところでは、人は自暴自棄になり、退廃の誘惑に身を任せやすくなる。
 人間は高度の意識を持ち、その高度な意識活動によって対象を象徴化したり事物を抽象化したりすることができる。である以上、「理想」を構想するという行為を捨て去ることはできないのだ。
 よく「理想」を語る者への批判として、「現実から逃避している」ということが言われる。しかし、そのように語る者たちは「今そこにある現実だけがすべてで絶対的なもの」と考えて、現実を変革してより良い社会を築くという行為を避けて安易な道を選んでいるだけである。その帰結は対症療法の積み重ねにしかならない。ときには(特に緊急時には)対症療法も必要であるが、対症療法はあくまでも対症療法でしかなく、根本的な問題解決にはならない。人間は常によりよい世界を考え、実現しようとする営みを続けてきた。「現実への逃避」は「現実からの逃避」と同じくらい間違っている。

シニシズムの克服と理想の復権に向けて

 3・11の衝撃はほとんどの日本人に「自省」の契機を与えたが、今もその姿勢を保っている人はそれほど多くないようだ。我々は世界の劣化を食い止め、立て直すために、シニシズムを克服し、「自省」の姿勢を取り戻し、「理想を構想すること」の復権に取り組まなければならない。それにはどこから取り掛かればいいのか。またどんな「理想」を構想すべきなのか?
 これは筆者には手に余りすぎる問題である。たぶん大勢の人々が対話を繰り返すことを通じて築いていかなければ独善的な構想になってしまうだろう。ウェルズやダーウィン、マルクス、カント、ヘーゲル、レヴィ=ストロースといった「知の巨人」の存在も必要になるかもしれない。ただそのための手掛かりとなりうる事柄はいくつが示すことができると思う。
 まず70年代初めまで西側先進国の中間層の人々が共有していた価値観に基づく「理想」をそのまま復活させることはできない。従来の価値体系に基づく「理想像」の破たんはそれなりの必然的な理由があったのであり、そのことを無視して従来の「理想像」をよみがえらせても同じように破たんするだけである。ただし、従来の価値体系の多くは決して無効になったわけではなく、その概念や意義を問い直しつつも、これからも保ち続けていかなければならないもののほうが多い。それを踏まえたうえで、新たな価値体系を構築し、理想を構想しなければならない。
 その新たな価値体系を考えるキーワードとして「環境」「多元性・多様性」「人類」「共生・連帯」の4つの概念を挙げておきたい。
 「環境(Environment)」についてはあまり多くを語る必要はないだろう。現在の地球環境のことを考えればそのかけがえのなさ、保全の重要性を否定する人はまずいない。ただ未だに西欧的価値観では(特に経済成長・産業振興を至上の価値に置いている人)自然を征服・支配する対象ととらえている傾向が強い。文明と自然環境の調和をどのように図っていくかは大きな問題である。
 「多元性・多様性(Multiple/Diversity)」は資本主義経済体制が世界のすべてを覆い、機械的産業化が進むにつれてあらゆる物事が貨幣・商品に還元され、社会の均質化・一元化が極限まで行くことに対するアンチテーゼである。今商品価値への均質化が進むにつれ、多様な文化や生き方が消えつつある。一切の差異のない均質化した社会は効率は最大限に高くなるだろうが、環境の変化に対する適応性に欠け、発展性はなくなる。危機に対しもろいことは言うまでもない。また多様な資質を持った人間に対し特定の生き方を強いる側面がある。それは非常に非人間的なことである。
 「人類(Mankind)」はウェルズが最もこだわった概念である。この概念がなぜ重要か、そのわけは2つあげられる。まずこの概念が特定の「国家」や「民族」や「社会」を超えたところに成立する、人間に対する普遍的な概念であることである。この概念について考えることによって多くの人々が囚われている従来からの狭い枠組みを取り払い、視野を広げて人間同士の不毛な争い・対立を抑えることができる。もう1つはこの概念が人間を地球上の生物の中の一つの種(species)として位置づけていることである。こう考えることで人間がほかの生き物に対し特別な存在ではないことが意識され、人間中心主義的な考え方を乗り越えられるきっかけになるのではないか。環境・生態系と人間とのかかわりを考える上で大変重要な概念になると思う。
 最後の「共生・連帯(Live together/Solidarity)」は新自由主義が推し進めたアトミズムと自己責任論に対するアンチテーゼである。そして対立関係にある物事を統合に導く概念になるのではないか。
 以上の4つの概念のうち、「環境」と「人類」がどちらかというと全体性に焦点を置いているのに対し、「多元性・多様性」は個別性に焦点を置いている。「共生・連帯」はその二律背反を調整するための概念ともいえる。「個」が生きる上での「全体」は大事だが、その「全体」の存続と発展のために「個」が圧殺されることがあってはならない。
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 「理想」を構想するにあたっては、どの程度の大きさの時間軸をとるかも問題になってくる。哲学者の内山 節氏が東京新聞に寄稿した論説(6月22日朝刊―時代を読む「理念なき劣化した社会」)で、群馬県の総合計画策定にかかわった経験を基に、時間軸を長く取らないと「理念(理想)」は生まれないと訴えている。短い時間で物事を考えると目先の利益のことばかり考えて発想が陳腐なものになってしまうというのだ。長い時間様々な変化の波にさらされながら大きく変わることなく生き残り、多くの人に共有されることができる概念だけが「理想」に値するとの趣旨である。内山氏の意見を踏まえると、その時間軸の大きさは5年や10年というものではなく、最低でも50年から100年以上といった大きさが必要とされるのではないか。
 社会が目指す理想を構想するための手掛かりを探るうえでもう一つ考えなければならないのは「社会主義の総括・再検証」である。1980年代末から90年代初めにかけての東欧民主化の影響で、社会主義体制に対する評価は最悪の判定を受けてしまった。「社会主義に対する資本主義の優位性」が大々的に喧伝され、西側諸国をはじめとする各国の巨大資本とその活動を後押しする各国政府・政治家の主導により、経済のグローバリゼーションがますます隆盛になった。しかしその結果として世界はよりよくなっただろうか?新自由主義の外延的拡大・内包的深化は今まで見てきたとおり、むしろ世界を劣化させてきている。
 ソ連崩壊から四半世紀近くたった今、現存していた社会主義体制を冷静な目で改めて再検証できるようになりつつあるのではないか。そしてその欠陥や否定的な面ばかりでなく評価できる点にも目を向けるべきである。例えば80~90年代に外交官としてソ連の実情を見てきた佐藤 優氏は恩師の鎌倉孝夫氏(埼玉大学名誉教授)との対談集「初めてのマルクス」((株)金曜日刊)で、ソ連での実質の労働時間は一日当たり4時間程度だったと発言している。西側諸国に比べれば、確かに東側の所得水準や技術水準は大きく劣っていたが、とりあえず健康的で文化的な最低限の生活水準を維持してきたことを考えればこれは注目すべきことではないだろうか。つまり社会体制によっては最低限度の生活水準を維持するために必要な労働時間は一日に4時間あればいいということだ。
 翻って今の日本といえば労働基準法の一日8時間、週40時間以内の労働で生活できる賃金を得ている人は少ない。実質賃金は1995年をピークに減り続け、実質労働時間の短縮動向は横ばい状態で、職種と待遇によってはむしろ増加している労働者も少なくない。「過労死」は常にメディアを賑わせている話題である。より豊かになろうとしているのに多くの人々の収入は減り、そのほかの生活条件も悪くなる一方なのではないか。それらの問題を考えれば現存していた社会主義体制のすべてを「独裁・強権国家」という位置づけにしておくことで完全に否定できるのか?リーマンショック時に「資本論」をはじめとするマルクスの著作が改めて脚光を浴びたことは象徴的である。
 さらに言えば「マルクスの思想」だけが社会主義思想のすべてなのではない。マルクスに先立つ社会主義思想家としてはイギリスにロバート・オーウェンがいたし、フランスにはシャルル・フーリエがいた。またマルクスの同時代人として活躍したピエール・ジョセフ・プルードンはマルクスとは別の社会主義構想を持っていた。そのあとにもイギリスでは議会政治を通じて社会主義を実現しようとするフェビアン協会があったし(ウェルズはフェビアン協会に加入していたことがあった)、フランスには成員の協働による活動を通じて社会主義を実現しようとする社会連帯主義の流れがあった。プルードンの構想を発展させてLETS(Local Exchange Trading System)などの地域通貨構想の元祖となったシルビオ・ゲゼルの考えは、現代のサステナビリティ論者の経済構想に通じるところがある。また、「社会主義思想」の範疇には入らないが、「脱工業化社会の到来(ダイヤモンド社刊)」を著した社会学者のダニエル・ベルは新自由主義経済とは別の「公共計画(社会的問題の解決や社会構造の改善を経済活動の目標とするもので箱もの主体の「公共事業」とは違う)」を重視する経済構想を持っていた。
 それらの思想を再検証することは、新たな価値体系を生み出し、それを基に理想を構想するための大きな手掛かりを与えるだろう。「社会主義」のみならず、様々な「異端の思想」や「主流から外れた思想」を再検証することは、今まで我々が見逃していた視点や価値に気付かせてくれるだろう。
 最後に、昨年亡くなった作家の辻井 喬(堤 清二)氏の著作の中から、以前筆者がJANJANの投稿記事で引用した言葉を再び掲げることで本稿の結びとしたい。引用部分の「民主主義」を「シニシズム」、「ユートピア思想」を「理想」と置き換えてみると本稿の内容にぴったりくる。
民主主義はユートピア思想の(負の側面に対する)解毒剤であり、
ユートピア思想のない民主主義は、魂を入れ忘れた仏である。
(辻井 喬「ユートピアの消滅」集英社新書、カッコ内筆者)

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  • 最終更新:2014-06-27 22:22:53

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