我が国の現状は「封建政治」!? ~「憲政の神様」の指摘との悲惨なる“相似”   成瀬裕史

■「文化の日」は「憲法公布日」かつ「明治天皇誕生日」

 今日は文化の日。
 国民の祝日に関する法律によると「自由と平和を愛し、文化をすすめる」ことを趣旨としている。

 一方、11月3日は、1946年に日本国憲法が公布された日であり、同憲法が平和と文化を重視していることから、祝日に定められたという。

 また、戦前は、明治天皇の誕生日による休日となっていた。

 「憲政の神様」と呼ばれた尾崎行雄は、この明治天皇の最大偉業を「憲法発布」と述べている…。


■「憲法発布で、官吏に生殺与奪権を専有された人民は禽獣状態を脱した」

 尾崎行雄は、その著作『憲政の本義』(大正7年)
の「第四章 先帝陛下の最大偉業」の中で、

「陛下は憲法を発布し、人民に生命、財産、その他の権利を与えた」
「二千有余年、官吏の為に生殺与奪の全権を専有された人民は、この時始めて禽獣状態を脱して、完全なる人類となった」と述べている。

 また、「第五章 帝国憲法の神髄」として、
「人民に生命、財産、その他の権利を保証するに外ならない」と述べている。


■尾崎行雄曰く「日本はなぜ敗けたか」

 また、尾崎行雄が戦後に著した『民主政治読本』(昭和22年)
1.日本やぶれたり(上)の、「日本はなぜ敗けたか」で、

「その一つは日本人が立憲政治の運用を間違ったこと」で、
「もし日本に立憲政治が行われていたら、今度のような戦争はしなかったであろう」と述べている。

 「立憲政治では政府といえども法律の枠をはずし勝手にふるまうことは絶対に許されない」筈なのに、

「わが国の立法府はこの大切な役目を忘れ、行政府の風下に立ち、行政府の補助機関のような役割を演じた」ため、

「少数の軍閥や官僚に引きずられて、国家と国民を、今日のような破滅の谷底に、追い込んでしまった」

と述べている…。


■封建政治は「政府万能」の政治

 また、同じく「1.日本やぶれたり(上)」の、「封建政治と立憲政治」では、

「どこの国でも立憲政治の前は封建政治で、立法も司法も行政府の一部分に過ぎず、

政府が勝手に法律を作り、勝手に裁判し、人民の命は斬り捨て御免で犬猫同様に扱われた。

人民の財産も、人間が鶏の卵を勝手に取り上げるように、人民から取り上げてしまった。

すなわち、封建政治は政府万能の政治である」

とした。


■自分の生命・財産には、法律によらねば指一本触れさせぬ「立憲政治」

 しかし、「人智が進むと、人はその命と財産の持ち主であると自覚し、政府万能の政治では承知できない。

自分の生命・財産には、自分の選んだ総代が決めた法律によるのでなければ、指一本だって触れさせぬとなり、
立憲政治が生まれた」とし、

「立憲政治では政府といえ法律の枠をはずし勝手にふるまうことは絶対に許されない」
「司法府もまた、法律によって裁判・処刑するだけだから、立法府が国の政治の中心となるのは理の当然」とし、

「しかるに、わが国の立法府はこの大切な役目を忘れて、
行政府の風下に立ち、行政府の補助機関のような役割を演じたため、

憲法の名あって実なく、ついに少数の軍閥や官僚に引きずられて、国家と国民を、今日のような破滅の谷底に、追い込んでしまった」と、

戦後、『民主政治読本』で尾崎行雄は述べている。


■「議員が政府に盲従」の弊害は、「国会がない」よりも酷い

 また、尾崎行雄は、大正期の『憲政の本義』で、
「憲法は、主として人民の生命財産の安固を保証するといえども、未だその効用を解せず、その恩沢に浴せざるものも多く、
「猫に小判」とはこの事態を嗤笑するもので嘆かわしい」
と述べている。

 そして、「立憲国民と専制国人民の相違は、その生命財産の保管人・代議士を選挙する権利の有無にほかならない」とし、

また、立憲政治の最も憂うべきものとして、「議員が政府に盲従する」ことを挙げ、

「いずれの国の憲法も、これを予想せず、その予防法を設けてないので、
議員がもしことごとく政府に盲従したら、その弊害は国会がないよりも甚だしい」

としている…。


■現在の日本は「政府万能」の「封建政治」か!?

 以上、「文化の日」=「憲法公布の日」つながりで、として、「憲政の神様」尾崎行雄の著作を辿ってきたが、

「大日本帝国憲法」の時代でさえ、政府の法律の枠を外れた勝手な振る舞いは絶対に許されなかったというのに、

主権在民の「日本国憲法」下で、憲法で認められない「集団的自衛権の行使」を、
閣議決定により、その容認を勝手に認めるというのは、

政府が勝手に法律を作り、勝手に裁判し、人民の命は斬り捨て御免で犬猫同様に扱われた
「政府万能の封建政治」の時代と変りないのではないか!?


■「力の支配」から「道理の支配」へ

 憲政=立憲政治は、憲法に基づく政治であり、
「憲政の神様」尾崎行雄が目指したのは、
「人の支配/力の支配」を廃し「法の支配/道理の支配」を実現することである。

 さらには、その法を作る議会、その議会を構成する議員、その議員を選ぶ選挙の重要性を説いた…。

 翻って現在、「集団的自衛権行使容認」の閣議決定をはじめ「特定秘密保護法」の成立など、「1強多弱」の政治状況の中、安倍総理・官邸による「人の支配/力の支配」が横行している。

 一方、最高裁の人事統制下で「ヒラメ裁判官」が政府擁護の判決を連発する中、「法の支配」さえも当てにならない現在、「道理の支配」に頼るしかないのではないか。


■解散を怖れ政府を監督せず、これに盲従する議員たち

 尾崎行雄は、『憲政の本義』の「第七章 選挙人の腐敗は立憲政体の最大の弊毒」で、
「議員が政府に盲従すれば、人民は唯だ自らを咎めるのみで、決して政府を咎められない。
なぜなら政府の非行は、皆な人民総代の賛成したところであるから」とし、

また、「選挙人が腐敗し選挙に多額の経費を要するようになると、議員は解散を怖れ政府を監督せず、却ってこれに盲従する」
「生命財産の保管人である選挙人の腐敗は、立憲政体を根底より破壊し、鍵を盗賊に与えるに均しい」
とまで述べている。


■官吏に生殺与奪を専有される「政府万能の封建政治」に別れを告げるには?

 現在、「1強多弱」で「力の支配」が横行する安倍政権下、
政治資金規正法で禁じる「うちわ」を配ったり、観劇やワインなど有権者への便宜供与により2閣僚が辞任に追いやられた今こそ、

「政府万能の封建政治」に別れを告げ、「道理の支配」に我が国の政治を引き戻す絶好の機会ではあるまいか?

 私は、私が選んだ訳でもない議員が、政府に盲従し、
憲法により保証された我々の生命・財産、その他の権利を、
「官吏の為に生殺与奪の全権を専有される」ような法律に賛成し、閣議決定に異を唱えず、行政府の補助機関のような役割を演じたため、

「我が国や我々国民が、少数の歴史修正主義者や官僚に引きずられ、再び先の大戦のような破滅の谷底に追い込まれてしまう」ことだけは、
「何としても避けたい」のである…!!


 しかし、そのためには、何よりも、「道理の支配」を実現する候補者が、次の選挙で立たねばならない。

 そろそろ「1強」や「多弱」の既存政党による候補者には見切りをつけ、「人物本位」の候補者を、各省選挙区の有権者自らが担ぎ出す時代が来たのではないか?

 「ネット」の力が、それを可能にすると、私は信じている…


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  • 最終更新:2014-11-04 00:53:44

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