「歴史に学ぶ」?  井上 純

 近年日本で保守を自認する政治家が「反動的」主張や行動をとると、近隣国やリベラル派が「歴史を顧みていない」と批判するという光景が繰り返されている。昨年末の安倍首相の靖国神社参拝でも、近隣国は言うまでもなく、インド外相も同国を訪問した公明党の山口代表に「日本は歴史的にいろいろ経験し、振り返ると正しくないと感じることもある。学習して先に進むのがベストだ」と苦言を呈したそうだ(東京新聞1月7日朝刊)。ドイツの宰相ビスマルクが言った格言に「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ」というのがある。
 この「歴史に学べ」という意見はある意味では正しいと思う。が安倍首相をはじめとするこの手の人々に関してはあまり意味を持たないのではないだろうか。なぜなら保守派の人々とリベラル派や近隣国とは近代日本に対するよって立つ歴史観があまりにも異なっており、しかも安倍首相たち一部保守派は異なる歴史観を受け入れないだけでなく、歴史観の異なる人々の考えを尊重することすら頭にないようなのだ。
 ある時代に起きた歴史的事件があったとする。Aという歴史観を持った人物とBという歴史観を持った人物がいたとして、この歴史的事件を調べたとする。歴史的事実の認識という面では二人にはあまり違いはないだろう。しかし、一つの歴史的事実にもさまざまな側面があり、歴史観の違いによりどの側面を重く見るかが異なるので、この歴史的事件から引き出す教訓は、AとBとでは異なるはずだ。
 安倍首相は靖国参拝に当たり「祖国に命をささげた英霊に尊崇の念をささげた」と述べた。確かにわが国、特に保守派からすれば靖国に祭られているのは「祖国に命をささげた英霊」というのはそのとおりである。しかし隣国から見れば「国土を踏み荒らし、祖先の命を奪ったにっくき仇」である。わが国でもリベラル派は「無謀な国策によって犠牲を強いられた被害者」と見るだろう。「国が破局へ向かう歩みに加担した者(積極的であれ消極的であれ)」とみる向きもある。どの見方も決して間違いではない。靖国に祭られた人々は「英霊」という側面だけでとらえることはできない。歴史的事実に対する見方はこのように多面的なのである。
 一個人ならともかく、公人、しかも国家の指導者たる首相や、重要な公職についている政治家ならば自分の価値観を絶対化してほかの見方や自分に対する批判を拒絶してはならないはずである。ところが安倍首相をはじめとする最近の一部保守政治家は自らの価値観に拘泥して異なる見方を受け付けようとしないのだ。自分の政策に対する批判にむきになって反論する安倍首相の姿勢を見れば彼が異なる見方を受け付けようとする気が全くないのがよくわかる。
 このような人々に「歴史を顧みよ」「歴史に学べ」といっても、歴史から自分に都合のいい教訓をとりだすばかりで独善性は消えないだろう。
 同じ保守派でも、自民党の石破幹事長のほうがまだ柔軟性がある(官邸デモに対する「テロ発言」で株を落としたが。この発言や石破氏の思想については反対なので念のため)。以前、彼が核兵器保有論に対する反対意見を週刊誌に寄稿したものを読んだことがあるが、その中で、自分の立場に沿った見方で書かれた書物だけを読んでばかりいては反対派との議論がかみ合わないし、見方が狭くなると考えてマルクスの「資本論」などを読んでみたことがあったそうだ。そのせいもあってか、彼は議論でも理詰めで臨もうとする姿勢がみられるし、相手の意見を頭から否定する姿を今まで見たことがない。安倍首相たちに欠けているのは「歴史に学ぶ」ことではなく「多様な立場の人々に学ぶ」ことのように思う。
 ちなみに、前述したビスマルクの格言だが、正確には「愚者だけが自分の経験から学ぶと信じている。私はむしろ最初から自分の誤りを避けるため、他人の経験から学ぶのを好む」と言ったのだそうである。いずれにしても、謙虚に他人に学ぶことが独善や視野狭窄に陥ることを防ぐ王道である。これは安倍首相を批判する中国にも言えることである。

  • 最終更新:2014-01-09 17:01:03

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