「知性がある」とはどういうことか?   井上  純

 初めに断わっておくが、筆者は他人の知性の是非を判断できるほど知性があるなどとおこがましいことは考えていない。今まで会った人から面と向かって「知性がない」といわれたことはないが、心の底では「あいつは知性がない」と思った人がもしかしたらいたかもしれない。そんな筆者でも最近の政治の中枢にいる人々は、その知性を疑わせてしまう者が多いと感じてしまう。
 例えば、安倍晋三首相。この人は自分の考えは常に正しいと考えているらしい。自分の考えに異を唱える人の言うことを拒絶し、自分の主張に都合の悪い事実を認めようとせず、あまつさえむきになって否定しようとする。テレビのニュース番組が行った街頭インタビューで自分の行う政策を批判する人が多いという結果に「意見の紹介の仕方が公平ではない」と怒り出す。国会の審議で自分への質問でないのにかかわらず質問内容が気に入らなければ野党の質問者を野次る(玉木雄一郎衆院議員に「ニッキョーソ!」、辻本清美衆院議員に「早く質問しろよ!」「大げさなんだよ!」)。それでも反論が理に適っているのならまだしも、多くは論点をすり替えたり、はぐらかしたり、強引に屁理屈を付けたりしたものだ。さらに自分の不明な部分について恥じ入ることなく開き直っている。それが端的に表れているのが、「戦後レジームからの脱却」というスローガンを掲げていながら、その「戦後レジーム」のもとになったポツダム宣言について、何の屈託もなく「つまびらかに読んでいない」と明らかにしたことだ。
 安倍政権の主要メンバーの中にも知性を疑わせる人々が目立つ。いちいちあげていたらきりがないのでいくつかにとどめるが、麻生太郎副総理兼財務相はこれまでも物議をかもす乱暴な発言をたびたびしてきた(「アルツハイマーでもわかる」「ナチスの手口を学んだらどうか」など)。「未曽有」と書く漢字を「みぞうゆう」と間違えて読んだこともある。また最近では記者会見で質問した香港のテレビ放送局の記者を大した理由もなくあざ笑ったと伝え聞く(同席していた日本の報道機関の記者もつられて笑ったそうだ。どんな理由があれ人をあざ笑ってはならないのは常識である)。高村正彦自民党副総裁は自らが中心となってまとめた安保法制を憲法審査会で参考人になった憲法学者から「違憲立法だ!」と指摘される(それも自党が推薦した参考人にまで)と、「憲法学者は条文の字面に拘泥する」「学者の言うとおりにしていたら平和が保てるか」などと言い放つ。自民党の憲法起草委員会の事務局長を勤め、今は首相補佐官となっている礒崎陽輔参院議員は「大学の憲法講義で立憲主義を習っていない」そうだ。礒崎議員の話をもう一つ加えると、今度の安保法制を説明するツィートで集団的自衛権の行使を消防団の消火活動にたとえた解説をして、十代の少女に例える例が適切でないと論破されてしまった。
 政権とは直接関係がない政治家の中にも知性を疑わせる人がいる。その一人が橋下徹大阪市長。この人は口にすることとやることがたいへん乱暴である。自分のとる政策に異を唱える有識者に対し、ツイッターなどで「馬鹿だ!」と口汚くののしるばかりでなく、自分に従わない公務員や教職員に容赦なく強権をふるう。また物事を「儲かるか、儲からないか」で判断し、利益に結び付かない文化を軽視する。「文楽」への市の補助金を削ろうとしたのもそのような価値観が基にある。彼のほうが頭の切れがいい点を除けば、ある意味安倍首相に似ている。政界引退したが、石原慎太郎元東京都知事という人もいた。近隣諸国の人々への差別意識丸出しでヘイトデモの増殖に一役買った人である。アーサー・ビナード氏によると、石原元都知事は彼の作品を引き合いに日本在住の中国人作家(おそらく楊逸(やんいー)氏のことだと思う)が日本語で書いた作品を酷評した。都知事時代、彼は一自治体の首長に過ぎなかったのに、尖閣諸島を巡る中国との領土問題を後先を考えず自分の信条だけで動かそうとした。
 ついでに海外の政治家についても見てみよう。取り上げる人物はいずれも現在は政治の表舞台から去っているが、全員が新自由主義または新保守主義の信奉者で、政権を握っていた時は無謀な政治を行い、交代した現政権はその負の側面の処理に苦労している。
 アメリカのジョージ・W・ブッシュ前大統領は9・11を口実にアフガン戦争やイラク戦争を引き起こした張本人である。大統領就任前(テキサス州の知事だった)は「思いやりの保守主義」などという口当たりの良いキャッチフレーズを掲げていたが、就任した途端米国に本社を置く多国籍巨大企業に有利になる政策をとった。彼が知性を疑われるようになった理由は間違った発言が多いこと。外交の相手国の元首の名前を思い出せなかったり、地名を間違えたりした。彼のスピーチ原稿には言い間違いを防ぐために「読みがな」が降られていたそうだ。こういった点は麻生氏に似ている。
 ニコラ・サルコジ前仏大統領は乱暴な物言いが目立つ。この人については初めは麻生太郎的だとおもっていたが、弁護士の資格を持っている点や、金もうけ至上主義の傾向が強い点を考えるとむしろフランス版橋下徹というべき人だろう(いや、橋下市長のことを「浪速のサルコジ」と呼んだほうがいいか)。前任者のジャック・シラク元仏大統領は知日派で、日本文化に大変理解があったが、サルコジ氏は相撲について「太って頭髪をポマードで固めた者同士の取っ組み合いのどこがおもしろいんだ」と言ったらしい。彼がシラク政権の内相についていたころ、パリ郊外で若者の暴動事件があった。事件の背景には人種差別や経済格差・失業などの問題があったが、鎮圧にあたった彼は暴動に加わった若者のことを「社会のクズ」「ごろつき」と呼び捨てた。たびたび暴言を吐くのでフランスでは当人を呪うためにその表面に彼の口にした暴言のいくつかを印刷した「サルコジ人形」というものが売りに出されたそうだ。
 今まで挙げてきた政治家たちを上回る「最悪」の政治家がシルヴィオ・ベルルスコーニ元伊首相だろう。暴言や強権的な政治手法に加えて露骨な権力の私物化を行った人物である。就任したてのオバマ米大統領に対して「あのよく日に焼けた人」という人種差別に当たるような発言を繰り返したり、彼を批判したドイツの議員に「あなたを映画のナチスの強制収容所の看守役に推薦しましょう」といった暴言を吐いたりするなど物議をかもした発言は事欠かない。実業家としてメディア企業のオーナーの顔を持ち、そのメディアを通じて自ら所属する政党やその政策のキャンペーンを強力に行った。彼は首相在任中、絶えずいくつもの汚職疑惑(その職務に関するものもあれば、彼がオーナーになっている企業に関するものもある)が付きまとったが、自らの政治力を駆使して追及を回避させる法律を成立させ、捜査をもみ消した。浮名も絶えず、正式な伴侶がいながら、若い女性に手を出したり、パーティーの場に娼婦を読んだりした。

 知性を疑わせる政治家の行状を挙げるだけで前置きが長くなってしまったが、ここでは知性のない政治家が多く出てくる理由について論じるつもりはない。以前、この問題につながることを考察したものを書いている(「きれいごと」で構わない、「理想を構想し、訴える」ことの復権を)ので、それを読んでもらいたい。これから考えてみようと思っているのは、彼らに共通するものを浮かび上がらせることで、反知性主義的人間の特徴と、「知性がある」ということはどういうことなのかを明らかにすることである。
 まず、「知性」という言葉はどのように定義されているのだろうか?「広辞苑・第6版」(新村 出編 岩波書店)には次のように説明されている。

知性……⑴頭脳の知的な働き。知覚を基にしてそれを認識にまで作り上げる心的機能。
⑵広義には知的な働きの総称。狭義には感覚により得られた資材を整理・統一して認識に至る心的機能。

 この定義を基に考えると、知性にはまず高い知的能力が必要となることが言える。知的能力を働かせて得られた様々な知覚を基に分析や統合を行い、高度な認識を形作ることが知性にとって重要だということだろう。その点について今までここに上げてきた政治家たちはどうなのであろうか?
 そこで政治家たちの学歴について注目したい。学歴が高いからといって必ずしも普通の人より格段に知的能力が優れていることを現しているわけではない(むしろ見かけ倒しに過ぎないことが多々ある)が、それでもある程度以上の知的能力がないと高い学歴は得られないことも事実なわけで、それなりの指標にはできる。Wikipediaに出ていた政治家の経歴を参考にして調べた結果が以下の記録だ。


安倍晋三首相:成蹊大・政→南カリフォルニア大・政(中退)
麻生太郎副総理兼財務相:学習院大・政経→スタンフォード大
高村正彦自民党副総裁:中央大・法
礒崎陽輔首相補佐官:東大・法
橋下徹大阪市長:早大・政経
石原慎太郎元東京都知事:一橋大・法
ジョージ・W・ブッシュ前大統領:イェール大・人文系(学部ははっきりしない、歴史学学士習得)
ニコラ・サルコジ前仏大統領:パリ第10大(たぶん法学)
シルヴィオ・ベルルスコーニ元伊首相:ミラノ大・法


 いずれの政治家も有名な大学を卒業している。加えて彼らの知的能力が表れていると思われる事実をいくつか挙げると、まず安倍首相は英語を話すことができる(お世辞にも流暢とは言えないが)。知的能力が低い人には母国語と外国語の両方を使いこなすことはできないだろう。また高村副総裁・橋下市長・サルコジ前仏大統領は弁護士の資格を持っている。弁護士の職務を果たすには法の条文に詳しいだけでなく、合法・違法の判断の根拠や法の解釈・適用の仕方が適切かつ論理的でなければならない。石原元東京都知事はもともと作家として世に知られるようになった人物で、著名な小説を書き、芥川賞なども受賞している。そのような文学作品をかけるようになるためには知的能力が劣っていては無理である(高い感性が必要なことは言うまでもないが)。ベルルスコーニ元伊首相は実業家として出発したが、企業経営で成功するには高い知的能力が不可欠である。
 このように知的能力についてはこれらの政治家が一般の人より決して見劣りしているわけではなく、むしろ優れた面があることを示す事例が見受けられる。にもかかわらず知性を疑われる行為が絶えないのはなぜだろうか?高い知的能力を持っていれば必然的に知性が発揮できるようにはならないのか?
 このことについて別の切り口から考えてみよう。ここ30年程前からやくざの世界も変わってきた。以前は恐喝をしたり風俗店の用心棒をしたり、賭博の胴元をしたり麻薬や覚せい剤を密売したりと荒っぽいことをしてしのぎを得るのが常道だった。しかしこの頃は表向きはまともな事業の形態をとる「経済やくざ」が幅を利かしている。主に裏金融や、土地ころがし、または振り込め詐欺の組織作りなどがその手法である。これらは実務の知識が必要だし、組織作りや摘発を逃れるために法律の裏をかく方法、リスクの管理などで高い知的能力が要求される。ではこのような「知的なやくざ」にはたして知性を認めることができるだろうか?ふつうはたとえ知的能力が高くても「やくざ」というだけで「知性がある」とは認めないのではないだろうか。それは「やくざ」とされる人物が帯びるある種の粗暴性・反社会性・狡猾性や自己中心性といったものは一般には知性と反対のものと考えられており、そのことが彼らをして知性があると認めることをためらわせるのだ。つまり高い知的能力は知性を身につけるために必要な条件の一つではあるが、単に知的能力が高いだけでは知性があるとは認められず、そういう意味で高い知的能力イコール知性ではないということだ。
 そこで本稿で取り上げた政治家に共通する性向を抜き出して彼らに欠けているものを浮き彫りにしてみる。まずここに挙げたすべての政治家に共通する行為として自分の反対者や自分より劣っているとみなすものなどを口汚くののしるということが挙げられる。安倍首相が野党議員の質問時に野次を飛ばしたり、橋下市長やサルコジ前仏大統領、ベルルスコーニ元伊首相が乱暴な物言いをしたりしたのは先に書いたとおりだが、石原元東京都知事は差別意識丸出しの言動を臆することなく言い続けたし、麻生財務相も優越意識からほかの人を見下すような発言が時折見られた。ブッシュ前米大統領もイラン・イラク・北朝鮮に「悪の枢軸」というレッテルを張っている。
 また物事の道理を軽視した行動をとる、粗暴な行為をする、姑息な手段に出るということも挙げられる。安倍政権の安保政策などはその典型で、本来は憲法9条の改正が必要になる政策を、改正が困難だからという理由で解釈の変更で済まそうとする(そのような行為がもたらす弊害を無視する)など、道理にかなわないことを平然と行っている。先ほど衆院で可決された「戦争法案(安倍首相はそう言われるのを嫌がるが)」の審議も形式上の手続きは整えるが、その内実は空虚なもので、欠陥を指摘されると、屁理屈を唱えながら(時には逆ギレし)強引に押し通すといったことの繰り返しである。このやり方、イラク戦争直前にブッシュ政権が国連安保理でイラク武力制裁決議を強引に取り付けようとしたやり方にどことなく似ていると思われる。結局のところ安保理決議を得られなかったブッシュ政権は有志連合というものをでっち上げて身勝手かつ強引にイラクを攻撃した。橋下大阪市長や石原元東京都知事、サルコジ前仏大統領やベルルスコーニ元伊首相の手法も類似のやり方をしていることはここでとくに具体例を挙げるまでもないだろう。
 大衆迎合のパフォーマンスをするため、多くの人が感覚的に受け入れやすい敵を作って叩くという手法もこの手の政治家のやり口である。安倍首相にとっては「民主党政権」と「中国」、橋下大阪市長にとっては「大阪の公務員」、石原元都知事にとっては「自分が毛嫌いするものすべて(彼は自分が嫌うものは人も嫌うと思っている)」、ブッシュ前米大統領にとっては「アルカイダ」と「悪の枢軸」、サルコジ前仏大統領にとっては「旧植民地からの移民」、ベルルスコーニ元伊首相にとっては「共産主義者」がそれにあたる。
 それらの性向の深部には「自己中心性」と「傲慢さ」が潜んでいる。高い知的能力によって深い認識を得た人は自己を客観的・相対的に見ることができ、謙虚になって自らを厳しく律しようとするはずだ。冷静な状況認識や他者への共感などの態度が身になっていると自己を優先しようとする欲望を妨げるのである。また、常に自らの行為が道理にかなっているかを振り返る「反省」の契機を持とうとする。しかし、彼らにはそれがない。彼らの認識は彼らの主観や感情や願望によってゆがめられている。そこからさまざまな事実や結果を自分の都合のいいように解釈し、利用しようとする動機が出てくる。
 安倍首相の口癖の一つに「総理大臣は私だ」という言動がある。まるで総理大臣になったことで自分のやりたい政策に対する正当性とフリーハンドを得たような口ぶりである。総理大臣の権限は国民からの負託によって与えられたものであり、その行使は憲法などの法律による規定と国民(正確には、国民の代弁者として選ばれた国会議員)の承認に基き、国民の暮らしの安定と改善のために用いるものでなければないはずで、首相個人が自分勝手に行使してはならないはずだ。にもかかわらず安倍首相は自分が自民党の総裁選挙や衆議院の総選挙などに勝利したということを以て国民から「白紙委任状」を得たと都合のいいように考えている。
 繰り返すが「知性がある」ということは単に「知的である」ということにとどまらない。その言葉には知的能力を働かせて得られた深い認識によって自分の行為をより他者との関係において開かれたものに律していく態度も含まれている。安倍首相をはじめとする人々は認識に生じた歪みのために自らの知性を損ねている。単に知的能力が高いだけの「知性のない」人間が為政者になった時、国家に災厄がもたらされる。そのようなことにならないためにも、為政者は常に自分の知性を高めるために教養を磨くことを怠ってはならないし、国民は知性のかけているものに政治を任せてはならない。
  • 知性があれば、改行もなしで、べたべたと文字を貼付けた文章をネットに掲載しませ〜〜ん --- (2015/07/25 11:22:56)

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  • 最終更新:2015-07-22 20:08:18

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