「金の切れ目が縁の切れ目」 井上 純

 一般の人ならざっと目を通して過ぎるだろう何気ない記事に引っかかった。10月24日付の東京新聞朝刊地方面の小さな記事。そして「またか」とため息をついた。
 その記事には母親の遺体を放置して死体遺棄の罪で逮捕された大和市の50代の無職男性のことが載っていた。ケアマネージャーから連絡を受けた市職員が男性宅を訪ねたことで発覚したところを見るとやはり男性は母親を介護していたのだろう。取り調べに対し男性は容疑を認め、「発覚すると年金をもらえず生活できなくなると思った」と答えている。
 なぜこの記事に注意を向けたかというと同じような事件が今年4月の東京都板橋区で起こっているからだ。9月13日に投稿した(9月24日に一部訂正)拙稿にも紹介したが、50代の女性が介護していた90代の父親が突然死去し、女性はそのことをだれにも相談できなかったため死体遺棄の罪に問われそうになっている。ただし、この女性には父親の死を隠蔽する意図はなかった。この事件が起きた時にはおそらく地方面でしか報じられなかったか社会面で取り上げられても小さな記事ではっきりとした記憶に残らなかったのではないかと思うが、東京新聞7月3日の朝刊一面で、木原育子記者がこの事件の背景を詳しく報じたため筆者の関心も高まった。
 やはり前回投稿の拙稿で述べているが、筆者も今年1月に介護していた父を亡くしたので、いずれの事件も他人事とは思えない。4月の事件の女性も今回の男性も筆者と同じく50台で、親を介護し、無職で親の年金に頼っていたことまでこの二人と筆者の状況は一致している。それなのに親が亡くなった後の境遇が筆者と大きく違ってしまった。おそらくその違いを生んだのは要介護度の重さの違いに加えて年金収入や人とのつながりといった面で筆者の家庭はいくらか余裕があったためだろう。4月の事件の女性はほとんど一人で介護していたようだ。今回の男性はケアマネージャー以外に頼れる人はいなかったのだろうか。
 これもくらしのあらゆるものが市場経済化された現代社会の負の側面のひとつといったら大げさに聞こえるだろうか。でも「金の切れ目が縁の切れ目」という側面があることは否定できない。たぶんこの二つの事件の当事者もたとえ貯えが乏しくとも心置きなく相談できる相手がいたり、低所得者に対する行政の支援制度の情報が届いていたりすれば事件にまで発展することはなかったかもしれない。しかしこの二つとも収入が乏しい人には得られない傾向が強まっている。収入がないため人との交際ができなかったりとか、自分に必要な情報に接することができなかったりする人の話は新聞やテレビの報道などで時折見かけられる。
 これらの事件の中には様々な問題が潜んでいる。まず、いまだに仕事と介護の両立が難しいこと。次に年をとればとるほど再び職に就くことが難しくなること。人同士の間の交流が極めて脆弱になってきていること。接することのできる情報に対する個人の間の格差が広がっていること。そしてこれら四つの問題の難易度がすべて、かなりの程度で当事者の所得によって左右されてしまうことといったことが挙げられる。
 報道によって公になった事例はおそらく氷山の一角だろう。今後も少子高齢化の進行や所得格差の拡大によってこのような問題はますます頻発するに違いない。それを防ぐための仕組みや組織を作っていくことが今すぐ必要だ。親亡き後の境遇こそ違え筆者も当事者の一人としてだれもがこのような境遇に陥ることを防いだり、また不幸にもこのような境遇に陥った人を支えたりする仕組みをほかの人と一緒になって考えたい。
  • 安倍首相は第一次政権の時「再チャレンジしやすい社会を目指す」との賜っていたのですが、あれどうなったのでしょう。 --- 井上 純 (2018/10/24 19:13:19)

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  • 最終更新:2018-10-24 19:09:01

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