「GSEF2016モントリオール大会」東京報告会に参加して 井上 純

 1月15日(日)に「ソウル宣言の会」と「明治大学日欧社会的企業比較研究センター」の共催による、「「グローバル社会的経済フォーラム(Global Social Economy Forum=GSEF)2016モントリオール大会」東京報告会」が明治大学駿河台キャンパスグローバルフロント2階4021番教室で開かれた。2008年に引き起こされたリーマンショック以来、「人間・文明と経済」について考え続けてきた筆者は、資本主義市場経済を変革しようとする運動の現在について知っておきたいと思い、報告会に参加した。本稿は報告会で発表されたこととその感想であるが、その前に「社会的連帯経済」と「ソウル宣言の会」について簡単に触れておきたい。
 「社会的連帯経済」とは「利潤の限りなき増大」を目指す資本主義市場経済とは異なる原理で運営される経済の仕組みの一つである。それは19世紀に始められた「社会的経済」と20世紀後半から見られるようになった「連帯経済」が、新自由主義に対抗するため統合されて進められるようになった。
 「社会的経済」とは、同じ地域や職能等で結成され、利潤の増大よりも成員の間の相互扶助により福利の向上を図る目的で組織された協同組合(農協・生協・共済・信用組合)や財団などの活動がそれにあたる。一方、「連帯経済」とは、貧困や少数者の人権や環境破壊、文化の保護、地域振興などの社会問題を市民活動やビジネスの手法で解決しようとする動きで、NPOの経済活動やフェアトレード、マイクロクレジット、ソーシャルビジネス(社会的企業)、地域通貨(Local Exchange Trading System=LETS)などがそれにあたる。「社会的経済」の担い手になる層はどちらかといえば政治的に保守を志向する傾向があり、「連帯経済」の担い手は政治的にリベラル志向なので、この二つの活動は最近までは交わることがあまりなかった。しかし、経済運営の原理(資本主義市場経済のように、投資額の多寡に応じて権利に格差が生じるのではなく、参加者の間の権利は誰でも平等)や目指す方向性などで共通する部分も大きいので、新自由主義がもたらした問題を解決するためにこの二つの潮流を統合する動きが出てきた。
 「社会的連帯経済」の活動は西欧や米大陸(北米・中南米)で活発に行われているが(フランスではGDPの10%が社会的連帯経済により創出)、アジアでは、1997年に通貨危機に見舞われた韓国で急速に取り組まれるようになった。韓国ではIMFにより緊縮財政などの経済構造転換が行われた結果、賃金の切り下げや農業の衰退が進み、格差の拡大や少子高齢化、ソウル圏以外の地域の衰退が著しくなった。このため多くの市民が社会的連帯経済の組織を立ち上げ、社会が抱える問題に取り組むようになった。金大中(キム・デジュン)・廬武鉉(ノ・ムヒョン)の2つのリベラル政権もその活動を政府の施策の中に位置づけて後押しした。特に、軍政時代に民主化運動に取り組み、その後も市民活動のリーダーとして社会問題に取り組んできた弁護士の朴元淳(パク・ウォンスン)氏の存在は大きい。朴氏は市民運動団体「参与連帯」や政策シンクタンク「希望製作所」などの設立に関与し、韓国国会第16代総選挙でも落選運動を主導してきた。また。海外の市民運動との交流にも努め、2000年には日本の市民運動団体とも交流を深めた。
 朴氏は2011年10月に、韓国政府内閣の一員としての権限も持てるソウル特別市の市長選挙に当選すると、「ソウル特別市社会的経済基本条例」などの社会的連帯経済の活動を後押しする様々な条例の制定に取り組んだ。その過程でソウル市は西欧やカナダなどの社会的連帯経済の取り組みを学び、そこから自らの制度を作り上げてきた。そのような経緯をたどって設立されたのが「グローバル社会的経済フォーラム」であり、その最初の大会が2013年にソウル市で開催された。その背景には、利潤追求のためになりふり構わず力を行使するグローバル資本の活動と、その果てに引き起こされたリーマンショック以降に頻発する経済危機に対する危機感であり、対抗する市民活動にも国際的な連帯が求められていたからであった。
 GSEF2013ソウル大会には日本からも10の市民団体と8の地方自治体(その中には世田谷区や横浜市などがある)が参加。そのほかに個人として参加した活動家がいた。大会は「GSEF憲章」と「ソウル宣言」を採択した。「宣言」は社会的経済の必要性をとき、その運営を草の根の参加型民主主義の原理で行い、国際的なネットワークを構築することを目標に掲げている。その精神を日本にも広め、社会的連帯経済の仕組みを築こうとして設立されたのが「ソウル宣言の会」である。
 報告会は第1部と第2部に分かれ、第1部ではまず初参加の人のためにGSEF設立からモントリオール大会開催までの経緯がレクチャーされた。次にモントリオール大会で議論されたテーマやそこで明らかになった各国の社会的連帯経済の担い手たちの動向についての報告があった。GSEFの大会は2014年もソウルで開催されたが、その次の大会は1年措いた2016年にモントリオールで開くことになった。それは韓国の社会的連帯経済の制度設計がカナダのケベック州の制度と共通しているからだ。欧州の社会的連帯経済は財政的に市民からの寄付でほとんどを賄うなど地方自治体とは一線を画したシステムで、市民社会の成熟度などで韓国の実情になじまない部分が多々あった。一方、モントリオールオリンピックで巨額の財政支出を強いられ、その後の破たんで混乱状態にあったケベック州は1990年代より社会的経済の重要性を認識するようになり、統計や制度作りを始めるようになる。その時構築されたのが地方自治体と社会的企業が連携するシステムだった。
 大会の重要な議題になったのは社会的連帯経済の主体と行政との連携について。「ソウル宣言の会」が大会事務局に提案したレポート9件のうち採用されたのは3件だったが、そのすべてが行政との連携についての報告だった。また、世界63か国の330の自治体から1500名を超える行政関係者が参加し、分科会等で報告したのみならず、33人の首長等が全体会でそろって壇上に居並び、各3分でそれぞれの自治体で社会的連帯経済の主体との連携について語った。筆者の推測だが、この背景には各国で財政事情が厳しくなり、住環境や教育、医療、介護などの社会サービスの維持のために社会的連帯経済と連携する必要がどこでも意識されてきている状況があるのではないか。ちなみに今回日本から団体として大会に参加したのは「ソウル宣言の会」だけで、自治体の参加は1つもなかった。
 各国際組織との協働を推し進める動きもみられ、GSEFのメンバーに社会的連帯経済推進大陸間ネットワーク(Réseau Intercontinental de Promotion de L’ Économie Sociale Solidaire = RIPESS)などが加わったり、逆にRIPESSのメンバーにGSEFが加わったりした。更には公式機関としてソウル、モントリオール、バルセロナなどの世界の各都市の関係者により、社会的連帯経済に関する経験共有のための国際センター(Centre International de Transfert D’ Innovations et de Connaissances en Économie Sociale et Solidaire = C.I.T.I.E.S.)という組織が立ち上げられた。社会的連帯経済の活動が世界中に広がることを支援するために知識を共有し普及させることを目的にしている。これには2013年に社会的連帯経済にかかわる組織として社会的連帯経済タスクフォース(Task Force on Social and Solidarity Economy = TFSSE)という機関が国連に設立されたこともかかわっている。2015年9月に国連総会で採択された「持続可能な開発のための2030アジェンダ」の課題設定にはTFSSEでの議論がベースになっている。そしてそのアジェンダで設定された目標達成の担い手のひとつには社会的連帯経済の主体が想定されている。
 第1部の最後では今後の課題として、社会的連帯経済の活動を支援するための根拠となる法制度の制定などが挙げられていた。また、社会的連帯経済を進める各団体をまとめ、行政との連携を図れるプラットホームの設立にも言及していた。
 15分の休憩をはさんだ第2部では、「ソウル宣言の会」の招きでGSEF2016モントリオール大会に参加した各団体の代表や研究者など6名の方が、「ソウル宣言の会」事務局の牧梶郎氏の司会でパネルディスカッションをした。
 6名はまず、牧氏から大会参加の感想を訪ねられた。全員に共通する感想は「言葉の壁に戸惑った」こと。外国の言葉に精通している人ばかりではないうえに、カナダでもケベック州は日本ではあまりなじみがない(最近は必ずしもそうとは言えなくなりつつあるが)フランス語が公用語で、話されている内容を理解するのに苦労したようだ。
 生活クラブ山梨の理事長をしている上野しのぶ氏は、各国、特に欧州や北米の参加者が文化や芸術への支援を重要と考えていることに感銘を受けたようだ。上野氏によると、向こうでは文化や芸術はコミュニティーの振興や生活環境の活性化の重要なカギの一つに位置付けられており、そのためアーティストへの支援も行われているそうだ。彼女はケベック州では芸術を支援する団体が立派なアトリエを作り、アーティストに手ごろな価格で提供していると語った。
 このあと、ディスカッションのメンバーの中から日本ではなぜ社会的連帯経済の活動が広がらないのか、そしてこの状況を克服するにはどうすればいいかという問いが発せられた。これはメンバーの中でも議論になった。まず、この問いを深めるために、ソウルとモントリオールではなぜ社会的連帯経済の活動が広まったのかについての話があった。いずれも財政破たんに混乱の中でだれもが解決策を求めていたという状況があり、それが広まる土壌となっていた。日本では財政については危機的状況に近づきつつあることは多くの人が認識しているが、いまだ経済危機にはなっておらず、したがって自分たちで課題の解決を主体的に求めようとする動機に乏しいのではないかという意見があった。また、朴元淳氏が10年前に日本の市民活動の現状を論じた論文を引用し、日本では、社会的連帯経済の活動を行っている組織はあるのだが、横の連携がなくそれぞれが孤立しており、しかも社会的連帯経済について知らない人が多いので、自分たちの活動がそれにあたると思っていないのではないか、そして孤立によってノウハウが蓄積されないまま活動が挫折し、途絶えてしまったものが多いのではないかという指摘があった。そのほか、特に若者に広がっている「自己責任論」を指摘する人もいた。自らの置かれている苦境の原因が社会的な構造に根差しているところが大きいのに、自らの努力不足と思い込み、声を上げようとする意志の醸成を阻んでいるとの見立てだ。
 この現状を変えるためには、世界的にこのような活動が広まっていることを多くの人に知らせる必要があることでメンバーの意見は一致した。特に日本の市民活動は何もわかっていない人へのアプローチが下手で、画一的なPRをしがちであることを若い女性研究者が指摘した。彼女は若者や高齢者など相手の特性に合わせた訴え方をすることの必要性を説いた。それから、孤立して個別に活動をしている各団体をつなぎ合わせ、まとめていく必要性も説かれた。社会的連帯経済についての知識や運営上のノウハウ、各地で活動している団体など、そこであらゆる情報が手に入るウェブ上のプラットホームを作れないかという提案もあった。上野氏は市民活動に関する幼少期からの教育の必要性を訴えた。財政上の基盤を確立することに対する意見もあった。
 報告会は最後に、2018年に次回の大会が行われるスペイン・バスク地方のビルバオについて紹介するスライドが映された。バスク地方は世界的に有名な労働者協同組合、モンドラゴンの本部が存在している。
 報告会に参加してみて感じたのは、自ら現状を変革して自分たちが抱えている課題を解決する方法を模索しようという動きが、ほかの国に比べ日本では弱いということである。それは、日本人は長年にわたり社会は自分たちで変えられないと思い込んできたせいなのかもしれない。そして既に存在する社会に合わせて生きる責任はあくまで個人、または当人が所属する「家」にあるという考えが今に至るまで続いてきた。しかし資本主義市場経済の内包的深化の進行は、そんな個人を支えるはずの「家」に代表される血縁的共同体や地縁的共同体を解体して行き、また新自由主義は解体された共同体の代わりとなった企業から共同体としての性質を失わせた。人々はバラバラになったまま市場原理が支配する世界に投げ出され、効率よく利潤を最大化するという価値観に合わせて生きることを強いられている。この価値観に適応できない人間は打ち捨てられるというのが今日の社会である。
 しかし、市場経済の論理があらゆる領域に貫徹する世界になれば、そこで生きようとする人々の人間性は損なわれかねない。このような社会になってもなおその社会の論理に自らを適応させて生きていく道を選ぶのか、それとも、より人間的なものを尊重する社会に変えていくことを選ぶのかが今の日本人に問われている。
 今の日本人には資本主義市場経済以外の経済体制は考えられないようだ。そこでそもそも経済とは何かということを考えてみたい。それを考える手がかりはその言葉の由来にある。明治時代、economyという学問の体系が欧米からもたらされたときに、最初にこの体系を学んだ人はこの体系全体を表す日本語として「経済」という言葉を当てた。この言葉は中国の古典「文中子」の中にある「経世済民」という言葉を略したもので、「世をよく収め、民を救う」という意味の言葉である。また英語economyの語源となったのはギリシャ語のoikonomia(オイコノミア)で、家を表すoikos(オイコス)と、統治の意味があるnomos(ノモス)という言葉から構成され、「家計」とか「家政」を意味している。いずれの言葉にも、金儲けの意味合いは含まれていない。
 つまり経済とは、人間の厚生状態を維持し改善していくために、それに必要な物質やサービスを継続的に再生産していく活動である。そして本来貨幣は、その活動を効率よく進めていくためのツールであり、資本主義市場経済にとってなくてはならないものであっても、経済活動全般にとって決して必要不可欠なものではない。それが認識されれば、今の経済体制がすべてではないことがわかってくる。
 今の日本に生きる人が求めているのは、社会が抱える問題点を示すことだけではなく、それをいかに解決できるかの展望を示すことだ。展望が見えてくれば人々はきっと動き出すと筆者は信じている。

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  • 最終更新:2017-01-27 13:19:17

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